“What is the No. 1 selling duo in music history?”

そうなんです。60年代のスパースター、サイモン&ガーファンクルでもなく、、、70年代から音楽活動を始めた、ホール&オーツなのです。

なんといっても、80年代に爆発的にヒット曲を生みだした、Daryl Hall and John Oatesのライブを聞くのは今回が初めてだったので、かなり興奮気味。会社も早退して心待ちにしていたイベント。

9月3日、バンクーバーのPNE (Pacific National Exhibitionの略)で薄暗くなった8時頃過ぎにコンサートが開始された。

Out of Touch, Private Eyes, Family Man, Kiss on my list、、、私の大好きな曲をしっかり歌ってくれ、大満足。

実は、このコンサートの情報も夫が教えてくれたもの。同じ世代だからこそ、違う国で育っていても、趣味が違ったとしても、その時代に流行っていた音楽だから、それぞれ曲に対する思いがあり、、、、

当時から20年以上たっているが、素晴らしいものはいつまでたっても素晴らしい!ずっとこのまま音楽活動を続けてほしいと思う。

何曲か会場で大合唱となり、声を出して歌っている周りの人混みをみると、、、うーん。確かに中年の人ばっかり。っていうか、私もそうか?(笑)

ひとつ、ネガティブだったのは、すぐそばにいた高校生くらいの女の子がすごくつまらなさそうに彼氏に文句ばっかり言っていて(彼氏も彼女と同世代だったが、彼はかなりのファンのよう)周りの人を無視し続けていたこと。そんなにつまらないんだったらそこから出ていけばいいのに!後ろから蹴り飛ばしたいほどの怒りを感じたが、、、、ライブという貴重な体験を無駄にしたくないので、舞台にフォーカスするよう試みた。

音楽には好みがあるが、他人も自分と同様尊重するよう育てれらているはずの北米でも、他人の気分を害する行動しか取れないティーンが増えているのは間違いない。とても残念なことだ、、、。

古いとか言われても、しったこっちゃない。彼らの歌は、私の中で永遠に『大好きな歌』として残っていくことは間違いない、、、

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4月最終の週末、カルガリーの老人ホームにいる祖母の妹に逢いに行った。

今回は、夫と二人でGreyhound の長旅。

15時間かけてカルガリーに着いた。

昨年もこの方法でカルガリーに来たが、

夜行便だったので、景色を楽しむことは

できず、翌朝の早朝に到着した旅だった。

でも、今回は旅人づれ

景色の移り変わりをみながら、それを一緒に

楽しむ相手がいるたびは、やっぱいいい。

青空に向けてそびえ立つ、ロッキー山脈の威厳さに、

自然の凄さを見せつけられる。

見つめれば見つめるほど、人間はなんとちっぽけで

かなわない相手だ思わされる何かがある。

語らずに語る、大きな力強さを感じずにはいられない。

そして

カルガリーの4月。

アルバーターの青空は、本当にとても美しい。

翌朝、カルガリーで一番大きなモール

Chinook Centre

というところに、連れて行ってもらった。

これは、、、フードコートの写真。

お見舞いにいったある日の朝、彼女は、急に幼少のころの話をし始めた。

祖母と同様、現在のRichmond市、Acme Canary 付近で生まれたらしい。バンクーバーには1世紀を越えたルーツがあり、歴史的にも関係が深い。だけれど、私をそのまま包み込んでくれる、広い大地のアルバータに帰りたいと思う自分がいる。

カルガリーに住んでいたら、もっと頻繁に叔母のところに逢いに行ける。

15時間の距離は、やはりとても遠い、、、、、。

日系カナダ人』という言葉を耳にしたことがありますか?

日本では、あまり聞きなれない言葉ですよね。

それが、カナダでは違うんです。誰もが知っている言葉なのです。

カナダの公立学校では、Social Studyの一環として、カナダ政府が世界第二次大戦、真珠湾攻撃の直後、日系人を敵国人として恐れ、彼らの財産を全て没収し、短時間でトランクに入るだけの小荷物だけを持って、BC州の内陸へと強制的に移動させられ、戦争が終わるまで収容所キャンプで生活を強いられたという事実を、歴史として学んでいるのです。

日本人に関わる事実をカナダ人が知っていて、日本人が知らないのっていうのはどうなんでしょうか?

情報があまりない理由のひとつに、戦後、私の父(日系カナダ人3世)を含め、彼の家族のように、ほぼ強制に近い形で日本に送還された日系カナダ人の人口は約2万人くらいだったそうです。在日韓国人、中国人、日系ブラジル人などの人口に比べるとかなり低いので、マイノリティーということもあって、情報としては限られいるのだと思います。

そして、このパウエル・フェスティバルは、カナダに残った日系人たちがずっと支えてきたもので、私もできるだけ毎年、参加するようにしています。

日本人としては当たり前のこと、たこやき食べて、かき氷食べて、浴衣姿の人たちをバンクーバー近郊で見ることができるのは、唯一、この週末だけだとも言えるのです。

いろんな人たちが、いろんな思いを持ちつつ、なんとか続けてきたフェスティバル。

これからも、ずっと続いていってほしいです。

5月の初旬、バンクーバーのローカル日系雑誌、The Bulletin というバイリンガルの雑誌の広告で、バンクーバーの中国系カナダ人のコミュニティーについて学ぶイベントを発見。

これは、異文化に興味を持っている人を対象に、BC政府その他現地の団体の協力で、チャイナタウンの入り口にあるSUCCESSという移民をサポートする団体の会場にて開催された。

最初は、中国の代表的な文化遺産として、calligraphy 中国の書法や、絵法を、国内外で知られている名人によってデモストレーションされた。

書道は別にしても、ペインティングはやはりかなりの違いを感じた。その後、すごいボリュームの食事。さすが、中国。食べ物へのこだわるは本物。

食事を終えたら、今度は以前、バンクーバー市内で起きた、中国系移民による木の伐採事件について、当時市役所でボランティアをしていた女性からの話があった。

その当時、かなりのボリュームで中国(香港、台湾を含める)系の移民が急増していた。

お金を持って移民してくる大半の中国系移民は、長年その場所で大切にされてきた木々を、自分の購入した家の敷地内だからという理由から、ためらうこともなくどんどん切り倒していった。

欧米の価値観では、生活空間に木があることは文化への意識、水準の高さを示すものでもあり、その見解で見ると、中国系移民のこれらの行動は、教育の低さ、または野蛮な人種のとる行動として扱われることとなり、後に、バンクーバーの新聞の紙面を飾る大問題へと発展していった。

なんの遠慮もなく、何百年も植わっていた木を平気で切り落としていく中国系の移民に対し、憤りはどんどん高まっていき、市へ不服、不満の声が多数寄せられ、増え続けていった。

何年がその戦いが続いた後、最終的には法律で、市の許可なしでは敷地内であっても勝手に木を切り倒せない。許可が下りても、限られた数しか伐採してはいけないというルールが決められた。

その過程を通し、、、、

中国系の移民は、欧米系の住民に対する”木々に対する熱いこだわり”を知り、欧米系の住民は、中国系の移民が考慮なしに木を切り倒したのではなく中国の文化でもある Fung-Shuiによったものだと、理解できたようだ。

、、、、というのは、Fung-Shuiは方角に何があるかが、幸せな人生に大きくかかわってくるので、木がそこにあるとエネルギーの流れが悪くなる場合があるらしい。

それは、信じている人にとっては大切なことだが、それを信じていない人にとっては、全く理解を越えるものとなる。

しかし、自分の文化、価値観だけで、周りの様子を見ずに行動する自体はやはりどうかと思う。

それは、”郷に入れば郷に従え”と教わってきた、私が日本人なのだからだろうか?


愛知県の歴史を調べていたら、欧米の地に初めて足を踏み入れた最初の日本人は、愛知出身だと知った。

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その人の名は、音吉。尾張の国、知多郡の出身。

音吉のことをEver Green Forest-漂流から抜粋して、短編にまとめてみた。

<音吉、日本出国>
1832年、尾張藩の米や陶器江戸へ運ぶため、「宝順丸、所有者は愛知県美浜」14人の乗組員を乗せ、鳥羽を出帆した。しかし途中で嵐に遭い、舵が壊れ、船の転覆を避けるため帆柱を折り、そのまま黒潮に流され14ヶ月。

その間、太平洋を漂流し、乗組員は雨水で積荷の米で飢えをしのいだが、壊血病で次々と倒れていった。

j0362860故郷の人々は「宝順丸」の消息がと絶えたことから、地元に墓を建て、乗組員一同 の霊を慰めた。それが、現在の愛知県美浜町、小野浦にある「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑」、いわゆる三吉記念碑である。

<アメリカ到着>
米国ワシントン州沖に漂着した時、当時14歳の見習い船員。音吉、久吉、岩吉の3人だけが生き残った。この3人は、北米大陸の土を踏んだ「最初の日本人」になり、漂着した先は、現在、アメリカインディアンの保留地とされているカナダ国境付近、「フラッタリー岬付近」であった。ここ現地のマカ族に捉えられ船は壊され、彼らは原住民の保護の下に生き延びる。

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<カナダへ移動>
当時、その地域はイギリスの支配下にあり、音吉がスケッチした遭難時 の絵や積荷の美しい陶器は、現地部族の手を経てバンクーバー郊外、「フォートバンクーバー」に居住していた、ハドソン湾責任者のジョン・マクラフリンに 届く。そこで3人はカナダで、地元の学校に入学し、英語教育を受けることとなる。

<イギリスへ>
英国のハドソン湾会社にとっては、「鎖国している日本との交易」のために、”開国交渉に役立てるという目的”もあり、1835年この3人は、イギリスj0362858船でハワイを経由してロンドンへ。1日だけ上陸を許され、「ロンドンの土を踏んだ」めての日本人ともなる

<外国船で祖国日本に向かう>
1837年、アメリカの商船で浦賀に着くが当時の日本は、異国船打払令が定められており、理由を問わず、外国船に対しては砲撃がおこなわれていた。その後、商船は鹿児島を目指す。しかし、ここでも異国船打払令により、再び砲撃を受ける。

一旦は上陸を許され、薩摩藩の役人たちによって事情聴取を受けたのにもかかわらず、祖国の裏切りに遭ったみなは、深い心の傷をおった。船室で頭をまるめて、今日から祖国を捨てたと宣言する者も数名いたという。

j0434886船長は次に長崎行きを提案したが、彼らのほとんどは恐怖のため拒否したという。 そんな中で、当時19歳だった音吉だけは「もう一度やってみよう」と口にした。しかし他の者の同意を得られず、失意のうち一同はマカオへと戻ることになる。

日本人船上員は、この地で一つの決心をする。それは、自分たちのような悲劇を二度と起こさないようにする、ということだった。英米の商社経由で日本に帰れる可能性は低い。それよりは、清国経由で長崎に向かう方が確実だったのではないか、と彼らは考えた。

<聖書の翻訳に携わる>
その間、3人の世話をしてくれたのは、ドイツ生まれのチャールズ・ギュツラ宣教師。ギュツラフは3人を助手にし、聖書の翻訳に取りかからせた。彼らCB064037は1年がかりで「ヨハネ伝福音書」「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成した。

<イギリスで永眠>
1854年、彼らは日英親和条約締結時に通訳として日本との交渉に活躍した。音吉は、マレー人と結婚し、妻の 故郷であるシンガポールへ移住。そこでは、日本開国の最初のヨーロッパ派遣団、福沢諭吉に会う。1864年、音吉はジョン・マシュー・オットソンとして、「日本人としては初めてイギリスに帰化」した。その3年後、49歳で波乱の一生を終え、イギリス人墓地に埋葬された。

1879年、明治12年に長男ジョン・ウィリアム・オットソンが横浜にきて、父の遺言に従い、横浜で帰化を申請するが、その後の彼の消息は不明。神戸 のいくつかの商会で勤務した形跡があるが、当時の日本にはまだ帰化に関する法律が無かったため、帰化出来なかったものと考えられている。

<参考記事>

宝順丸の1/10レプリカを見た

祖国に見捨てられた男の悲劇。「にっぽん音吉漂流記」

12月19日に、ペリー&ハリス 泰平の眠りを覚ました男たち展覧会を見るため、名古屋のボストン美術館へ行った。

長崎の旅行で火がつき、NHKで大人気をよんだ『篤姫』の影響で、幕末時代のことが気になっていたので調度いい時期だと思った。
ただ、後で耳にしたのは、名古屋のボストン美術館には、存続問題 というチャレンジがあり、財政的に苦しいらしい。

ドイツの画家、ウイリアムハイネの描いたスケッチ画には、外国の目からみた、当時の日本の姿がすばらしく描かれていて、どの画像もとても惹かれるものがあった。

江戸時代の末、徳川幕府が勢力を弱めていく中で、幕府を支えていた中心人物もどんどんとなくなって行く。国内統治もままならない中で、開国を迫られた時代。

鎖国が解かれてから確かに、日本は大きく変わっていった。

やはり、どんな時代にあっても、今あるものを変えたくないという気持ちと、新しい流れにのれるよう、新しい柔軟な考え方をもって生きていくという二つの大きなものがぶつかり合う。

そして、それがどんな深い歴史の流れの中で培われたものであったとしても、〝時″がきた! とにはそれに勝つすべは残されていない。 <写真は、ビル内の入り口にある、boston cafe

会社経営でもそうだと思う。アメリカの車社会を何もせずに放置してしてきたトップ達の責任は大きい。 確かに、記憶によるとSUB、スポーツ・ユティリティー・ビエクルに乗るのがステイタスみたいな傾向があったのは覚えているが、2005年初、または中旬までがピークだったような気もする。時代の先を考慮して、新しいものを取り入れる財力も、力もあったのにそれを積極的にして行かなかったアメリカのCEO達には、本当に失望する以外何もない。

人の心を動かすには本音で話さないと無理だ!と大河ドラマで、篤姫のリーダーとしての品格を持つ社長がもっと日本に存在すれば、、、、。

会社のトップとして、いらないから、いらないときに切り捨てるでは、会社に対する忠誠心なんて育たない。
もちろん、会社がつぶれてしまっては元も子もないが、会社が傾く前に、その社長たちは、社員たちに現状を知らせて、一緒に戦っていくにはどうしたらいいのかと尋ねるような努力はしたのだろうか?

歯車のひとつとしてしか扱わないから、それ以上の働きを受け取ることもできない。会社は、自分の生き残りの為に切り捨てることができても、行き場のない人が増え、それゆえ犯罪も増えて、生活苦なので国内での消費は減少する。

こんな大変なときに、唯一のメリットとしての円高をあまり還元できていない、今のシステムはどうかと思う。

ペリー&ハリスが来た時代、この日本が心底から揺すられたことを考えれば、今回の打撃は経済的なものだけだと思う。
篤姫のような、人の心を思い、動かせることのできる人間としての品格のあるリーダー、または危機をチャンスと捕らえることのできるリーダーが日本にもっと現れてほしいと説に願う。

ホテルで朝食を済ませ、熊本から車で会いに来てくれていた、ウェブ開発屋をしているQuinnさんと初めてあった。

Quinnさんとは、数年前にバンクーバーのTECHイベントで夫と最初に知り合いになり、帰国後夫より紹介されて、昨年からメールとかスカイプで対話が始まり、その後、夫のサポート役として始めたコミュニティー、”Tech Talk Japan日本語” (旧blongnation Japan 日本語)というチャットの管理者をお願いしている、私と夫にとっては、誰よりも信用のおける人です。

その後、グラバー園に向かい、写真をバシバシとりながら、ゆっくりと回った。長崎とオランダ、大きく言えば日本と西洋の関係とも言えるが、その国との貿易だけでなく、船舶など、日本国内でのビジネスの発展に、グラバー氏がいろんな意味で大きく関わっていたこと、彼は日本の発展に必要不可欠だったとても重要な人物、そして日本をこよなく愛した人だということを再確認した。

同時に、その場所は、西洋料理というものが初めて日本に紹介された西洋料理発祥の地としても知られている。

ランチは長崎の中華街で、せっかくだからチャンポンをいただいた。

Quinnさんたちを見送った午後、もう少し観光を続けた。

長崎駅から、そんなに遠くない所に位置する、日本二十六聖人殉教地に向かった。

「もし一粒の麦か地に落ちて死ななければ、それは一 粒のまま残る。しかし死ねば、豊かに実を結ぶ」(ヨハネ12・24)。

キリスト信者は長崎で死んでいきました。しかし長崎の教会は死ぬことはなく、信仰を通して、姿は隠さざるを得なくとも、キリストの教えは親から子に伝えられて行きました。

残念ながら、すでに夕方のため、記念館には間に合いませんでしたが、その場に自分の足で実際に立ってこそ、考えられることがあると思うので、それを経験できるだけでも十分なことでした。

ディナーは散歩がてら出島ワーフへ。

WHARFと聞くと、つい、サンフランシスコを思い出し、いい印象があった。クラムチャウダーを食べれないのは十分承知しているが、それはそれでいい。

いろいろレストランはあったが、Atticというカフェ風レストランでピザとドリアを食べた。水辺の向こう側の夜景がすごく綺麗で、ピザもすごくおいしくて、ドリアも食べ応えがあり、味もおいしかった。全てが本当にちょうどよくて、心地よい夜風にふかれながら、は~っつ。本当に幸せ~なと思える、ゆっくりしたひと時を過ごせた。

なんとなくだが、長崎の物価というか現地のレストランの料金設定が、名古屋よりずっとお財布フレンドリーかな?っていう気がした。