国籍 日系人


4月19日、バンクーバーのクイーンエリザベス劇場で、東日本大震災復興支援に向けて、BC日本地震支援基金(BC- JERF)主催のチャリティーコンサート「GANBARE JAPAN」が開催された。

カナダ西海岸の先住民スコーミッシュ族が登場し、『今日のコンサートの邪魔となりえる悪いもの、不運を取り払う』ための祈りをささげる歌と踊りを披露し、その後、1分間の黙とうの時間が持たれた。

150人以上の、バンクーバー出身の世界的に活躍するアーティストたちがボランディアでの出演した。それぞれのアーティストが、自分なり日本へのメッセージを込め、支援を込めた選曲で、ステージで音楽を披露した。

世界で一番活躍している、日系カナダ人の環境保護活動家、David Suzuki氏はビデオメッセージの中でも特に、「福島の原発を機に、今こそ日本を中心として原発の是非をもう一度考えるべきだと」と呼びかけた。

コンサートの最終は、地元から数々の太鼓グループのメンバーが集まり、日本人の魂を揺り動かすことができるほど、スバラしい太鼓音楽を披露してくれた。その迫力と勢いのまま、 先住民とコラボレーションで、太鼓とダンスのパフォーマンスも素晴らしかった。

コンサートのフィナーレとして、天井から桜のように折り鶴1万4,000羽が舞い降りてきて、会場は歓声と大きな拍手で包まれた。

司会者の一人、テツロウ・シゲマツは、現地の日系アジア人コメディアンとしてはかなり有名で、10年くらい前と比べるとかなり落ち着いていたので、ビックリした。当時は、彼も若さという勢いがあって、大人の辛口ネタを得意としていたので私は苦手だった。しかし、月日が流れ、このような素晴らしいイベントの司会者に選ばれるほどに、変わっていたのであった。

公演の責任者は、ドキュメンターリーフィルムディレクターとして有名な、日系カナダ人のLinda Ohamaさん。以前、ブログでも紹介したこともあり、一度、プライベートでお会いしたことがある。キツラノのカフェでお茶をしながら彼女の人生のビジョンや私の日系カナダ人としての歩んできたストーリーを話し合った。彼女は、無を有にする力を備えた人であり、他人を知らないうちに、彼女の夢に惹きつけることができる能力を備えた人だった。つい、応援したくなるというか、なんとも素敵な女性でした!

<関係記事>

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東亜日報の記事で、戦後の日本で成功した「外国人の起業家のサクセスストーリー」を読んだ。

それは、90歳を目前にした現在でも「青年の頃のの熱情」を感じさせてくれる、ロッテの会長、辛格浩(シン・キョクホ)氏のことだった。いろんな記事を通して、私なりに辛格浩氏について学んだことをサマリーにしたので、ここで紹介したい。

<辛格浩氏の生い立ち>
1940年代、20歳の青年は、日本行きの釜関連絡船に乗り込んだ。第2次世界大戦が終わるまで釜山(プサン)と日本の下関間で運航されたその船の中で、青年 が持っていた資金は僅か83円。蔚山蔚州郡(ウルサン・ウルジュグン)で5男5女の長男に生まれた青年は、蔚山農業補習学校を卒業し、慶南(キョンナム) 道立種畜場で騎手補として働きながら、牛と豚の世話をした。新聞や牛乳配達もしたが、貧しい暮らしから脱するには力不足だった。父親に内緒で船に乗り込んだ 。

<早稲田大学>
工学部の学生は、軍隊に行かずに済むという噂を聞き、望んでいた文学部ではなく化学科を選ぶ。

<起業スタート>
日本人の友人の勧めでカッティングオイル生産工場を設立し、事業家の道に入った。 爆撃で工場は全焼したが、崩れた軍需工場で石けんを作って再起した。

<アイデアマン、ロッテ設立>
彼の事業的な才能が表れ始めたのはこの時からだ。 米軍が駐屯しながらガムが人気を呼ぶと、辛会長はすぐにガム事業に飛び込んだ。 風船ガムは飛ぶように売れた。 風船ガムに竹筒をつけ、おもちゃにするなど、市販するガムはヒットした。日本のテレビ普及率が急増するタイミングで、大々的なテレビコマーシャルで「ロッテのガムはお口の恋人」という言葉を流行させた。東京周辺の土地を持続的に買い入れ、日本の土地成金にもなり、こうしてにロッテが設立された。

<ロッテの由来>
『若きウェルテルの悩み』に登場する女主人公の名前はシャルロッテ。「ロッテ」グループの名前は、文学狂だった彼がこの本に感銘を受け、「シャルロッテ」にちなんで付けたのだ。浪漫に満ち溢れた社名なのである。

<ビジネスに対する情熱>
「ウェルテルはシャルロッテに対する愛と情熱のために楽しみ、時には悲しみ、その情熱の中に自分の命を燃やすことができた」。情熱があれば どんなに難しいことでも楽しく乗り越えられるが、情熱がなければ興味もなくなり、仕事の能率も悪くなる」、「経営者の情熱と職員の情熱が一つの総体とし て表れる時、その会社は大きな発展が約束される」と彼は強調している。

<戦後の日本で創業できた理由>
彼が日本で成功を収められたのは、誠実さと信頼感があったからだ。 創業の初期、辛会長の誠実な性格を信じて5万円を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰になっても辛会長を最後まで信じたという。

辛会長はその投資家に借金を返すため全力を尽くし、1年半ですべて返済、感謝の気持ちで住宅1軒を贈った。

<韓国に進出>
67年に辛会長は韓国にロッテ製菓を設立し、母国への投資を始めた。 ロッテグループの関係者は、この時から日本で稼いだ金を韓国に投資し始めたが、韓国で稼いだ金を日本に持って行くことは一度もなかった。

会長は韓国に進出する際、食品会社ではなく重化学会社の設立を希望していたという。 日本の工業化を見ながら将来性があると判断したのだ。 辛会長は石油化学事業を検討した後、政府に提示したが、LGグループが事業者に決定したため断念するしかなかった。

結局、実現したのはホテル業だった。 辛会長はあるインタビューで「ホテル業は利益を出すのが難しいが、韓国に一流ホテルがなかったので将来性があると考えた。 ホテル業について何も知らなかったので世界各国の一流ホテルを回って勉強し、日本の帝国ホテルをモデルにした」と述べた。

ここから辛会長が生涯守ってきた3つの経営原則を窺うことができる。

  1. 理解できない事業には手をつけない
  2. 可能性がある事業を始める時は徹底的に調査をしながら準備する
  3. 事業に失敗しても誰も被害を受けない範囲で資金を借り入れる

ロッテグループの系列会社のうち非上場会社が多いのも「失敗した場合、株主に被害を与えたくない」という辛会長の信条のためだ。このような背景を持ち、ロッテはグローバル企業へと発展してきたのだった。

辛会長は、国内の上場企業代表取締役のうち最高齢CEOであり、現在も1カ月間隔で韓国と日本を行き来するシャトル経営をしている現役なのである。

今日は、ノースバンクーバーで開業予定のヘアサロン、ジャイブ・ジャイブのグラントオープニングパーティに参加してきました。

このサロンオーナー、ハセガワさんは、なんと同郷の三重県出
身で、このJive Jive Hair & Make は、バンクーバーのこ
の店が、6店目の支店をオープンされたのです。

日本とカナダの両方で、ビジネスを展開している実業家でも
あり旦那様が、日本のサロンをケアしてくれているので、彼女
はバンクーバー支店の開業に全力をそぞくことができたと言っ
ておられました。

実業家と聞くと、すごいやりてで、おそらく性格もキツイと、普
通なら想像しがちですが、、、、本当に、とても気さくで、親しみやすい笑顔の素敵な女性です。

女の子2人の母親でもあり、、、とにかく、とてもよく動く人です、、、。

このサロンは、ノースバンクーバーのロンズデールー・キーのからとても近くて、ロケーションも抜群。お店の
インテリアもなんとなく、日本の支店と同じ、北欧のもつ特有な可愛らしさが感じられます。

やっとバンクーバーで出会えた三重県人。そんな彼女と二人で「三重県人会」でも始めようかと、、、、
なんて、二人で話が盛り上がって?います。(笑)

今、グランドオープニングスペシャルなど、いろいろな割引もあるので、ぜひ、、、、、
近くまで行ったのなら、どうぞ気軽に立ち寄ってみてください。

<サロン ロケーション>

Jive Jive Vancouver Branch

7 Lonsdale Avenue
North Vancouver, British Columbia V7M 2E4

Tel: 778-340-6243
Email: jagumi@live.jp

日系カナダ人』という言葉を耳にしたことがありますか?

日本では、あまり聞きなれない言葉ですよね。

それが、カナダでは違うんです。誰もが知っている言葉なのです。

カナダの公立学校では、Social Studyの一環として、カナダ政府が世界第二次大戦、真珠湾攻撃の直後、日系人を敵国人として恐れ、彼らの財産を全て没収し、短時間でトランクに入るだけの小荷物だけを持って、BC州の内陸へと強制的に移動させられ、戦争が終わるまで収容所キャンプで生活を強いられたという事実を、歴史として学んでいるのです。

日本人に関わる事実をカナダ人が知っていて、日本人が知らないのっていうのはどうなんでしょうか?

情報があまりない理由のひとつに、戦後、私の父(日系カナダ人3世)を含め、彼の家族のように、ほぼ強制に近い形で日本に送還された日系カナダ人の人口は約2万人くらいだったそうです。在日韓国人、中国人、日系ブラジル人などの人口に比べるとかなり低いので、マイノリティーということもあって、情報としては限られいるのだと思います。

そして、このパウエル・フェスティバルは、カナダに残った日系人たちがずっと支えてきたもので、私もできるだけ毎年、参加するようにしています。

日本人としては当たり前のこと、たこやき食べて、かき氷食べて、浴衣姿の人たちをバンクーバー近郊で見ることができるのは、唯一、この週末だけだとも言えるのです。

いろんな人たちが、いろんな思いを持ちつつ、なんとか続けてきたフェスティバル。

これからも、ずっと続いていってほしいです。

『日系カナダ人のドキュメンタリーが見れるから行かない?』と妹から誘われた。

どうやってそんなニッチな情報を見つけたんだろう?と不思議に思いつつ、詳細はわからないまま待ち合わせ場所へ向かった。

待ち合わせの駅に着いたとき、名古屋外語大学で『日経カナダ人3世製作の映画、おばあちゃんのガーデン 上演と後援会』へ行くのだということを知った。

ドキュメンタリーのタイトルにはかすかな記憶があるような、、、ただ、それが日本でみたものだったのか、バンクーバーでみたものだったのかさえも思い出せない記憶。 記憶の糸をたどれないなまま、映画はスタートした。

映画の内容は簡単に言えば、”写真花嫁”としてカナダに渡り、第二次世界大戦をくぐりぬけ、故郷日本への熱い思いを抱いたまま104歳まで生きぬいたある日本女性の一生を描いたもの。

サマリーはこんな感じ。

1898年 主人公のおばあちゃんの誕生
1916年 橋本氏と恋愛結婚。女の子2人
1921年 長男が亡くなり、橋本氏の親が二人を離婚させる
1923年 それでも家族と一緒に東京で新しく暮らそうと下見にいった夫は関東大震災の為、怪我をして帰ってくる。その後、夫は「天皇さまのおそばでお仕えする」といったまま、女の子二人を連れて東京へ立つ。
1924年 義理の親が、離婚したおばあちゃんを息子から遠ざけるため、当時唯一女性が海外へ行ける方法、写真結婚を勝手に手配し、カナダへ船で渡る。結婚したが、夫は好きではなかったので、缶詰工場やいちご畑で働いて旅費をその旦那様に返し、離婚する。その後、同じ苗字、妻に先立たれた男性と結婚する。
1942年 カナダ政府に強制されて、日系人キャンプへ
1945年 アメリカの日系アメリカ人は、家に帰ることができた。
1949年 日系カナダ人はアメリカより4年も遅れて、カナダ市民権の略奪から解放される
その後、日本には何度も帰国するが、日本で骨を埋めたいという夢はかなわず、カナダはカルガリーで永眠。

ドキュメンタリーの中には、ファンタジーも含まれていて、現在と過去、夢と現実が交互する。

リンダさんによると、この映画は本来は、家族の為に作ろうと思って始めたプロジェクトだったそうが、おばあちゃんが100歳になった時に、家族に初めて日本に二人の娘がいると告白した。この事実を知った時から、ドキュメンタリーを作るアイデアが浮かんだらしい。当時、家族は『とうとう、おばあちゃん痴ほう症が始まってしまったのか、、、』と疑わず、最初は誰も彼女が本当のことを話しているなんて信じなかったようだ。

オハマ監督の祖母は、カナダに移民してから約70年過ぎても、あまり英語を話そうとしなかったらしい。それは、おそらく彼女が日本人としてのアイデンティティーを残したかったからなのだろうと彼女は思っている。

オハマ監督が、この映画を作る際に初めて、祖母の実家に着いたとき、その雰囲気というか、、、何か『懐かしい』ものを感じたという。初めてではなく、、、帰ってきたという感覚に近い。

この映画には、バンクーバーバー在住のVivian Nishiさんも製作スタッフとして参加していて(彼女のバンクーバーの自宅もアーティスト・テイストだった)、それにオハマ監督の妹と私のイコト、サリー・伊藤とは友人であることも、直接オハマ監督と話して分かった。

ちなみに、そこで分かったことだが、3年前のバンクーバーでの私の結婚式に妹は、私と夫がハネムーンに出かけている間に、家族でスティーブストンのおばあちゃんのガーデン博物館を見に行っていたらしい。なんて、偶然。

リンダさんとは、共通点が一杯ある。

彼女もバンクーバーから来ていること。

忙しい両親の代わりに、時々おばあちゃんに面倒を見てもらっていた、おばあちゃん子だったこと。

私は、彼女とは正反対に祖母の生まれた国、日本へやってきた人ではなく、

祖母の生まれた国、愛してやまなかったカナダへ飛び立った側なのである。

公演中は、彼女の熱っぽく語る英語を、通訳の方はすごく分かりやすい日本語に訳していた。素晴らしい!Great Job!

リンダ監督とは、今度、ゆっくり話がしたいねということで会話を終えた。

これも、やはり 『劇的な出会い』 なのである。

<参考記事>

Obaachan’s Garden

Asayo Murakami: The Last Picture Bride

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