東亜日報の記事で、戦後の日本で成功した「外国人の起業家のサクセスストーリー」を読んだ。

それは、90歳を目前にした現在でも「青年の頃のの熱情」を感じさせてくれる、ロッテの会長、辛格浩(シン・キョクホ)氏のことだった。いろんな記事を通して、私なりに辛格浩氏について学んだことをサマリーにしたので、ここで紹介したい。

<辛格浩氏の生い立ち>
1940年代、20歳の青年は、日本行きの釜関連絡船に乗り込んだ。第2次世界大戦が終わるまで釜山(プサン)と日本の下関間で運航されたその船の中で、青年 が持っていた資金は僅か83円。蔚山蔚州郡(ウルサン・ウルジュグン)で5男5女の長男に生まれた青年は、蔚山農業補習学校を卒業し、慶南(キョンナム) 道立種畜場で騎手補として働きながら、牛と豚の世話をした。新聞や牛乳配達もしたが、貧しい暮らしから脱するには力不足だった。父親に内緒で船に乗り込んだ 。

<早稲田大学>
工学部の学生は、軍隊に行かずに済むという噂を聞き、望んでいた文学部ではなく化学科を選ぶ。

<起業スタート>
日本人の友人の勧めでカッティングオイル生産工場を設立し、事業家の道に入った。 爆撃で工場は全焼したが、崩れた軍需工場で石けんを作って再起した。

<アイデアマン、ロッテ設立>
彼の事業的な才能が表れ始めたのはこの時からだ。 米軍が駐屯しながらガムが人気を呼ぶと、辛会長はすぐにガム事業に飛び込んだ。 風船ガムは飛ぶように売れた。 風船ガムに竹筒をつけ、おもちゃにするなど、市販するガムはヒットした。日本のテレビ普及率が急増するタイミングで、大々的なテレビコマーシャルで「ロッテのガムはお口の恋人」という言葉を流行させた。東京周辺の土地を持続的に買い入れ、日本の土地成金にもなり、こうしてにロッテが設立された。

<ロッテの由来>
『若きウェルテルの悩み』に登場する女主人公の名前はシャルロッテ。「ロッテ」グループの名前は、文学狂だった彼がこの本に感銘を受け、「シャルロッテ」にちなんで付けたのだ。浪漫に満ち溢れた社名なのである。

<ビジネスに対する情熱>
「ウェルテルはシャルロッテに対する愛と情熱のために楽しみ、時には悲しみ、その情熱の中に自分の命を燃やすことができた」。情熱があれば どんなに難しいことでも楽しく乗り越えられるが、情熱がなければ興味もなくなり、仕事の能率も悪くなる」、「経営者の情熱と職員の情熱が一つの総体とし て表れる時、その会社は大きな発展が約束される」と彼は強調している。

<戦後の日本で創業できた理由>
彼が日本で成功を収められたのは、誠実さと信頼感があったからだ。 創業の初期、辛会長の誠実な性格を信じて5万円を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰になっても辛会長を最後まで信じたという。

辛会長はその投資家に借金を返すため全力を尽くし、1年半ですべて返済、感謝の気持ちで住宅1軒を贈った。

<韓国に進出>
67年に辛会長は韓国にロッテ製菓を設立し、母国への投資を始めた。 ロッテグループの関係者は、この時から日本で稼いだ金を韓国に投資し始めたが、韓国で稼いだ金を日本に持って行くことは一度もなかった。

会長は韓国に進出する際、食品会社ではなく重化学会社の設立を希望していたという。 日本の工業化を見ながら将来性があると判断したのだ。 辛会長は石油化学事業を検討した後、政府に提示したが、LGグループが事業者に決定したため断念するしかなかった。

結局、実現したのはホテル業だった。 辛会長はあるインタビューで「ホテル業は利益を出すのが難しいが、韓国に一流ホテルがなかったので将来性があると考えた。 ホテル業について何も知らなかったので世界各国の一流ホテルを回って勉強し、日本の帝国ホテルをモデルにした」と述べた。

ここから辛会長が生涯守ってきた3つの経営原則を窺うことができる。

  1. 理解できない事業には手をつけない
  2. 可能性がある事業を始める時は徹底的に調査をしながら準備する
  3. 事業に失敗しても誰も被害を受けない範囲で資金を借り入れる

ロッテグループの系列会社のうち非上場会社が多いのも「失敗した場合、株主に被害を与えたくない」という辛会長の信条のためだ。このような背景を持ち、ロッテはグローバル企業へと発展してきたのだった。

辛会長は、国内の上場企業代表取締役のうち最高齢CEOであり、現在も1カ月間隔で韓国と日本を行き来するシャトル経営をしている現役なのである。