愛知県の歴史を調べていたら、欧米の地に初めて足を踏み入れた最初の日本人は、愛知出身だと知った。

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その人の名は、音吉。尾張の国、知多郡の出身。

音吉のことをEver Green Forest-漂流から抜粋して、短編にまとめてみた。

<音吉、日本出国>
1832年、尾張藩の米や陶器江戸へ運ぶため、「宝順丸、所有者は愛知県美浜」14人の乗組員を乗せ、鳥羽を出帆した。しかし途中で嵐に遭い、舵が壊れ、船の転覆を避けるため帆柱を折り、そのまま黒潮に流され14ヶ月。

その間、太平洋を漂流し、乗組員は雨水で積荷の米で飢えをしのいだが、壊血病で次々と倒れていった。

j0362860故郷の人々は「宝順丸」の消息がと絶えたことから、地元に墓を建て、乗組員一同 の霊を慰めた。それが、現在の愛知県美浜町、小野浦にある「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑」、いわゆる三吉記念碑である。

<アメリカ到着>
米国ワシントン州沖に漂着した時、当時14歳の見習い船員。音吉、久吉、岩吉の3人だけが生き残った。この3人は、北米大陸の土を踏んだ「最初の日本人」になり、漂着した先は、現在、アメリカインディアンの保留地とされているカナダ国境付近、「フラッタリー岬付近」であった。ここ現地のマカ族に捉えられ船は壊され、彼らは原住民の保護の下に生き延びる。

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<カナダへ移動>
当時、その地域はイギリスの支配下にあり、音吉がスケッチした遭難時 の絵や積荷の美しい陶器は、現地部族の手を経てバンクーバー郊外、「フォートバンクーバー」に居住していた、ハドソン湾責任者のジョン・マクラフリンに 届く。そこで3人はカナダで、地元の学校に入学し、英語教育を受けることとなる。

<イギリスへ>
英国のハドソン湾会社にとっては、「鎖国している日本との交易」のために、”開国交渉に役立てるという目的”もあり、1835年この3人は、イギリスj0362858船でハワイを経由してロンドンへ。1日だけ上陸を許され、「ロンドンの土を踏んだ」めての日本人ともなる

<外国船で祖国日本に向かう>
1837年、アメリカの商船で浦賀に着くが当時の日本は、異国船打払令が定められており、理由を問わず、外国船に対しては砲撃がおこなわれていた。その後、商船は鹿児島を目指す。しかし、ここでも異国船打払令により、再び砲撃を受ける。

一旦は上陸を許され、薩摩藩の役人たちによって事情聴取を受けたのにもかかわらず、祖国の裏切りに遭ったみなは、深い心の傷をおった。船室で頭をまるめて、今日から祖国を捨てたと宣言する者も数名いたという。

j0434886船長は次に長崎行きを提案したが、彼らのほとんどは恐怖のため拒否したという。 そんな中で、当時19歳だった音吉だけは「もう一度やってみよう」と口にした。しかし他の者の同意を得られず、失意のうち一同はマカオへと戻ることになる。

日本人船上員は、この地で一つの決心をする。それは、自分たちのような悲劇を二度と起こさないようにする、ということだった。英米の商社経由で日本に帰れる可能性は低い。それよりは、清国経由で長崎に向かう方が確実だったのではないか、と彼らは考えた。

<聖書の翻訳に携わる>
その間、3人の世話をしてくれたのは、ドイツ生まれのチャールズ・ギュツラ宣教師。ギュツラフは3人を助手にし、聖書の翻訳に取りかからせた。彼らCB064037は1年がかりで「ヨハネ伝福音書」「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成した。

<イギリスで永眠>
1854年、彼らは日英親和条約締結時に通訳として日本との交渉に活躍した。音吉は、マレー人と結婚し、妻の 故郷であるシンガポールへ移住。そこでは、日本開国の最初のヨーロッパ派遣団、福沢諭吉に会う。1864年、音吉はジョン・マシュー・オットソンとして、「日本人としては初めてイギリスに帰化」した。その3年後、49歳で波乱の一生を終え、イギリス人墓地に埋葬された。

1879年、明治12年に長男ジョン・ウィリアム・オットソンが横浜にきて、父の遺言に従い、横浜で帰化を申請するが、その後の彼の消息は不明。神戸 のいくつかの商会で勤務した形跡があるが、当時の日本にはまだ帰化に関する法律が無かったため、帰化出来なかったものと考えられている。

<参考記事>

宝順丸の1/10レプリカを見た

祖国に見捨てられた男の悲劇。「にっぽん音吉漂流記」