『日系カナダ人のドキュメンタリーが見れるから行かない?』と妹から誘われた。

どうやってそんなニッチな情報を見つけたんだろう?と不思議に思いつつ、詳細はわからないまま待ち合わせ場所へ向かった。

待ち合わせの駅に着いたとき、名古屋外語大学で『日経カナダ人3世製作の映画、おばあちゃんのガーデン 上演と後援会』へ行くのだということを知った。

ドキュメンタリーのタイトルにはかすかな記憶があるような、、、ただ、それが日本でみたものだったのか、バンクーバーでみたものだったのかさえも思い出せない記憶。 記憶の糸をたどれないなまま、映画はスタートした。

映画の内容は簡単に言えば、”写真花嫁”としてカナダに渡り、第二次世界大戦をくぐりぬけ、故郷日本への熱い思いを抱いたまま104歳まで生きぬいたある日本女性の一生を描いたもの。

サマリーはこんな感じ。

1898年 主人公のおばあちゃんの誕生
1916年 橋本氏と恋愛結婚。女の子2人
1921年 長男が亡くなり、橋本氏の親が二人を離婚させる
1923年 それでも家族と一緒に東京で新しく暮らそうと下見にいった夫は関東大震災の為、怪我をして帰ってくる。その後、夫は「天皇さまのおそばでお仕えする」といったまま、女の子二人を連れて東京へ立つ。
1924年 義理の親が、離婚したおばあちゃんを息子から遠ざけるため、当時唯一女性が海外へ行ける方法、写真結婚を勝手に手配し、カナダへ船で渡る。結婚したが、夫は好きではなかったので、缶詰工場やいちご畑で働いて旅費をその旦那様に返し、離婚する。その後、同じ苗字、妻に先立たれた男性と結婚する。
1942年 カナダ政府に強制されて、日系人キャンプへ
1945年 アメリカの日系アメリカ人は、家に帰ることができた。
1949年 日系カナダ人はアメリカより4年も遅れて、カナダ市民権の略奪から解放される
その後、日本には何度も帰国するが、日本で骨を埋めたいという夢はかなわず、カナダはカルガリーで永眠。

ドキュメンタリーの中には、ファンタジーも含まれていて、現在と過去、夢と現実が交互する。

リンダさんによると、この映画は本来は、家族の為に作ろうと思って始めたプロジェクトだったそうが、おばあちゃんが100歳になった時に、家族に初めて日本に二人の娘がいると告白した。この事実を知った時から、ドキュメンタリーを作るアイデアが浮かんだらしい。当時、家族は『とうとう、おばあちゃん痴ほう症が始まってしまったのか、、、』と疑わず、最初は誰も彼女が本当のことを話しているなんて信じなかったようだ。

オハマ監督の祖母は、カナダに移民してから約70年過ぎても、あまり英語を話そうとしなかったらしい。それは、おそらく彼女が日本人としてのアイデンティティーを残したかったからなのだろうと彼女は思っている。

オハマ監督が、この映画を作る際に初めて、祖母の実家に着いたとき、その雰囲気というか、、、何か『懐かしい』ものを感じたという。初めてではなく、、、帰ってきたという感覚に近い。

この映画には、バンクーバーバー在住のVivian Nishiさんも製作スタッフとして参加していて(彼女のバンクーバーの自宅もアーティスト・テイストだった)、それにオハマ監督の妹と私のイコト、サリー・伊藤とは友人であることも、直接オハマ監督と話して分かった。

ちなみに、そこで分かったことだが、3年前のバンクーバーでの私の結婚式に妹は、私と夫がハネムーンに出かけている間に、家族でスティーブストンのおばあちゃんのガーデン博物館を見に行っていたらしい。なんて、偶然。

リンダさんとは、共通点が一杯ある。

彼女もバンクーバーから来ていること。

忙しい両親の代わりに、時々おばあちゃんに面倒を見てもらっていた、おばあちゃん子だったこと。

私は、彼女とは正反対に祖母の生まれた国、日本へやってきた人ではなく、

祖母の生まれた国、愛してやまなかったカナダへ飛び立った側なのである。

公演中は、彼女の熱っぽく語る英語を、通訳の方はすごく分かりやすい日本語に訳していた。素晴らしい!Great Job!

リンダ監督とは、今度、ゆっくり話がしたいねということで会話を終えた。

これも、やはり 『劇的な出会い』 なのである。

<参考記事>

Obaachan’s Garden

Asayo Murakami: The Last Picture Bride