偉大な成果を残す人の陰には、必ずその人を支える人たちがいる!

「喜劇王」の異名をもつ、チャーリーチャップリン (1889-1977) といえば、ハリウッド映画初期の俳優、脚本家、そして映画監督として有名である。ただし、そんな彼のハリウッド黄金時代を支えた人たちの中に、日本人移民がいたことはあまり知られていない。

15歳でアメリカに渡る
高野虎市(1885-1971)は、広島の裕福な庄屋に生まれる。なにひとつ不自由のない家庭に育つが、古い家のしきたりを窮屈に感じ、1900年、15歳のときに親には「留学」と称して、自由の国、アメリカに渡る。当初は従兄弟を頼りにし、雑貨店などで働きながら暮らす。

27歳で人生を変える転機、チャーリーチャップリンと出会う
1916年秋、チャップリンが新しい運転手を捜しているという募集を聞き、長年運転手をしていたコーノ氏は、直接チャップリンに申し込みをしにいく。 面接時、ベットで朝食をとりながらチャップリンはコーノ氏に「君、運転出来るのか?そうかすごいな、、、、」と言われ、即決採用。

チャップリンは特に日本人を求めていたわけでも、コーノ氏がチャップリンを好きだったというわけでもなかったようだ。チャー リー自身も、イギリスからの移民だったから、それがコーノ氏を雇った一つの原因だったのだろうか?

几帳面さ、仕事熱心をかわれて、運転手から秘書に

当時運転手としては平均の3倍以上の給料をもらっていたので、高野は昼夜を問わず働いた。女性関係も激しかったチャップリンにもとことん付き合った。ミルドレットという最初の妻は、よりを戻そうと合作し、他の男を引き込んでいた。一方チャップ リンはこれを離婚の材料にしようとたくらんだ。コーノはこの時に相手側の探偵に銃を突きつけられることになった。そんな検診な信頼を得ていったらしい。 仕事に対する几帳面さ、一途な姿勢にチャーリーは感銘をうけ、その後、撮影所の管理から家の切り盛りまですべてをまかせられる程の責任のある仕事を与えられ、チャーリーの秘書となる。チャリーの家では、一時は料理人や庭師など17人の使用人全員が日本人だったほどである。チャップリンが日本びいきであるのもコーノ氏に由るところが大きかったのかもしれない。

アメリカが日本からの移民を禁じる。
チャップリンは、コーノの長男が誕生した際には、自らのミドルネーム(スペンサー)をその名前として与えている。チャップリンは「日本人を評 して、親切で正直だ」とも語った。アメリカ政府が1924年に「排日移民法」を定めて、日本からの移民を禁じた。それでもチャップリンは日本人を信頼し続けた。 その後、「街の灯」の映画が大ヒットとなる。そのヒットによりチャーリーは、チャーリー、世界一周の旅に出る。

1932(昭和7)年5月に日本にも訪 問する。チャップリンは日本に着いた翌日、「五・一五事件」(犬養毅首相が官邸で青年将校らに襲撃され、病院で死去した事件)に遭遇している。

五・一五事件 、チャーリー暗殺計画
来日中に犬養首相暗殺の515事件が発生。チャップリンの車が皇居前を通過するときにコーノ氏は安全のために「車から降りて一礼するように」チャップリンに求めた。それは日本の風習かとコーノ氏に尋ねたが、理由も分からず従ったものの、その真意を測りかねたそチャップリンはそんなコーノ氏に違和感を覚え、アメリカにいるときは見せたことの無い高野の行動にとまどったようだ。犬養毅との面会予定をキャンセルし、チャップリンは相撲を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかったが、標的として狙われていた。コーノ氏の機転で命拾いしたのである。

その頃、高野は広島に里帰りし"故郷に錦を飾った"。碑が残されており、「在米」という文字が刻まれている。 チャップリンは訪日中、歌舞伎や相撲を楽しんだ。歌舞伎役者とともに撮られた写真には靴をはいたまま畳みにあがっているチャップリンがいた。世界的大スターのチャーリー に、靴を脱ぐ習慣をどうやって伝えればいいのかわからなかったのであろう。

18年間仕えたチャップリンのもとを去る
「モダンタイムス」に出演していた女優、 ホーレット・ゴダードの存在が次第に高野を悩ませ始めた。 ホーレット・ゴダードがチャップリンの全てを取り仕切りたがり、どんどんと高野の仕事を侵食していった。こうして、1934年、金使いの荒いホーレットのことを チャップリンに進言するが、チャップリンは聞き入れず、コーノ氏はチャップリンの元を去った。日本人に対する差別意識を持っていたポーレットに不快に思われ、それに押し切られたチャップリンによって解雇されたという説が有力である。

妻の死、事業の失敗
その後、コーノ氏はロサンゼルスのリトル・トーキョーでチャップリンの映画を日本に配給する仕事をしていたが、日本との制度の違いでうまくいかなかった。次ぎの事業にも失敗し、意欲を失ってしまう。そんな中、妻が心臓病で他界する。

スパイ容疑で逮捕される
1941年、 コーノ氏は日米開戦の半年前に突如逮捕される。日本軍のスパイ容疑でFBIに逮捕された。これは高野と面識のあったアメリカ人俳優から日本海軍の士官との面会を依頼された。アメリカ海軍の機密情報を渡したという容疑であった。 結局、不起訴になったものの、コーノはこれによってアメリカから「国家の敵となる人物」としてリストアップされた。 日米開戦後、「敵性外国人」とされた日本人、特に国家の敵となる人物とされていた高野はすぐに逮捕され、モンタナ州の収容所で氷点下20度にもなる場所で肉体労働をさせられて厳しい取調べを受けた。司法省に無実を訴える手紙を出す。1945年終戦後、逮捕された日本人の多くは釈放されたが、コーノには、以前のスパイ容疑が重くのしかかり太平洋戦争が終わった後も、収容所生活が続き1948年にやっと解放され る。すでに63歳になっていた。

日系人のアメリカ市民権回復の運動
出所後、アメリカでの市民権を奪われた日系人の為、アメリカ市民権回復の運動に力をいれ、その運動を日本側でも続けるために、72歳になってから生まれ故郷の広島へもどる。 チャッ プリンは1961(昭和36)年に来日するが、2人は再会することはなかった。このとき高野は76歳になっていた。それが最後のチャンスとは分かっていてもそれでも会いには行かなかった。逮捕され名誉を奪われてチャーリーに合わせる顔がないと思ったのだろうか?それが最後のチャンスとは分かっていてもそれでも会いには行かなかった。

チャーリーに対する尊敬の意は永遠に。。。
チャップリンとのことを本にしては、という回りの勧めにも「文字は苦手だから」と断り、チャーリーの私生活は最後まで秘して語らなかった。チャーリーに対する尊敬、敬愛は、終生変わらなかったという。 コーノは86歳で永眠。今は、遺言通り、カリフォルニアの墓 地に眠っている。

<私の曾祖父母と比べても、、、>
カナダ移民の曾祖父の一生って”すごい”と思っていたが、高野氏の人生はもっと波乱万丈だった。曾祖父も同様、戦前にはカナダでの事業に成功し、日本にも2度ほど帰国して、故郷、愛知県で土地などを購入してたようだ。戦時中は、コーノ氏同様、日本人収容所で収容された。

戦後は、自分の娘や孫が強制送還された国、同時に自分の祖国でもある”日本”に帰ることは一度もなかったが、、、。1964年にカナダのアルバーター州、レスブリッジ市近くの墓地で永眠。

私は、結婚してからアルバーター州には一度も足を踏み入れていない。いつか、まとまった休暇がとれたら今度は”夫と一緒”にバンフ、カルガリーまで”車で旅行”したい。-朝早くバンクーバーを出発してもバンクーバーからカリガリーまで最短で13時間かかる。カルガリーに住んでる90歳を超えた叔母、アンティーケーや、テイバーに眠っている曾祖父を再度訪ねてみたい。

参考 ETV特集:チャップリンの秘書高野虎市 チャップリン高野を秘書に採用チャップリン没後30年  秘書・高野虎市のこと チャップリンの日本、チャップリンと日本 – 俺はなでしこ 「高野虎市」 チャップリン チャップリンの秘書は日本人じゃ 高野虎市